昭和48年12月08日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを、信心というのじゃと。神に向かうて行く信心。そういう信心からでないと、心にいわゆる信心なければ世界は闇とおっしゃる。信心とはだから此処では光だと言う事ですね。信心は光なり。その光をもっているから、そこら辺が明るくなる。だから信心しとりますというだけではいけん。信心というのはわが心が神に向うと言う事ね。わが心が神様に進んで行くと言う事が、信心であるとです同時に信心なければ、世界が闇とおっしゃる。
 信心とは心に光をいよいよ大きく頂いて行くことなんです。わが心が神に向かうて行くことは、段々光が大きくなって行くことなんだ。だからその中のところに神徳の中におっても、カンテラに油一杯あってもというのは、その言うならば、道理を説いておられる訳です、神様の御神徳の中に私共はひたっとっても、その御神徳に向かって進んで行かなかったら、それはカンテラの中に油が一杯あるようなものなんだね。
 芯がないから、それでは火がともらんから、いうなら、同じことと言う事です。神徳の中に居っても信心がなければ、結局信心のない者も同じことという意味です。だからお互いの信心が、本当に心が神様に向かうて進んで行く信心を目指しておるか、どうかということ。と言う事がやはり一番焦点になる訳です。どうでしょうか。昨日一寸食堂に行きましたら、葉書がきとる。
 大坪総一郎様と見た所が裁判所がらきとる。引っくり返ってそこで、どう言う事だろうかと思うてみた所が、大坪栄四郎に対するいろんな事件についてと言う様な事。又どう言う事件を起こしたじゃろうかと見て、こまぁく右上の方に交通法違反と書いてあるけん、ははあ又やったばいなと私は思うた。そういう時にですね、あの例えばもう本当にちらっとでも暗くならない。私は本当に光のおかげだと思う。だからこれは今試験中じゃけん、栄四郎にはいうな試験どんがすんでんからから言えち。
 親子で出て行かんなんごと書いちゃる。まあそれはその位の事ですけど、どんな場合であってもです、信心の光というのは、その光を頂いておるという心が、やはりまどわない。それが大きうなれば大きうなるほど、ならどういう真っ暗い問題が起こってまいりましても、その真っ暗い問題も明るくして行く。信心なければ世界が闇なりと仰るが、なら金光様の信者が沢山出来れば、世界が明るうなるかと。今のような金光様の信者が、それこそ億万居ったっちゃ、世界は明るくならんでしょうね。
 人間心ばっかり使うとる信者が居ったっちゃ、只お願いをしてお取次を頂いておかげを頂くという様な信者は沢山居るとです。けれども心に光を持っておると言う様な、光をあの周囲を明るくすると、言う様ないうなら沢山は居らん。そういう信者、そういう信心でなければ此処では信心ではないと言うとられるのと同じ事です。信心がなければ世界は闇なりと。なら貴方の信心は言うなら光があるかね。
 先日の御理解の中にありましたね。いわゆる心の、私はその日にあの中村さんに書いてあげた。それはどう言う事かと言うと、あのその日の御理解がそうでしたから、心の光はお客の明かりと書いてやった。中村さんの心の中に、ささやかでも光があればです、そこに来るお客さんは明るうなる。そのくらいのおかげは頂かにゃいけません。もう本当に、中村さんのところに物をま食べに行かれると、行かれる人がみんな金光様の信心の話を聞かにゃならん。最近はそれをみんな有難く頂いて下さる。
 その胃が痛いというなら、お神酒を頂きなさい。御神米を頂きなさい。それでおかげ頂く。成程、中村さんの信心の光がお客さんを明るくしてゆくね。まあ些細なというならそういうところからです、いよいよそれが大きな光となって行くことが、頼みであり願いでなからなければいけん信心は。丁度同じ日に、あの内田さんのところの孝子さんがこの頃からお嫁に行きました。それであの色紙を何か親先生に書いてもろうてというから、やっぱりその日であったから、その事を書いてやった。
 それは何と書いたかな、とにかく矢張り心の光はお家の明かりだという意味の事を書いてやった。嫁御の心の中に信心の光が小さくても灯っておるとその家中が明るくなる。例えば明るい家でも、例えばあんたがお嫁に行った先で暗い心で居ったら、周囲の明るさまで暗くしてしまう。とまあ書いてやったり言うて聞かせる事は簡単なことだけれどもだけれども、実際に自分の心の中に光を頂くと言う事は、ならそれにやっぱり願いをかけなければ頂けることじゃない。
 ただおかげ頂くけんというてから、神様に逆たんぼうふって拝んどる信心だけでは、光は頂けません。おかげを頂いて、にこにこしとるとは、それは本な光じゃない。反対のことが起こってくると、もう心は真っ暗になってくる。もう心はいらいらしてくる。もう心は心配でたまらん。それではここにいわれる、信心なければ世界は闇なりと、仰るような信心があれば、言うならば自分の周囲だけでも明るい。自分に関係のあるところだけくらいは、明るい。
 それが世界は明るいと言う事になるのであるくらいの信心がです、頂けなければならん。もう私は夕べ、総代会で皆さんに話した事でしたけれども、もう結局はね、自分が本当に助かること以外にはない信心は。おかげを頂くちゅうことじゃない。自分の心の助かりに伴うてくる、それはね、私が居る間は私が居るあいだはです例えば、心に光がなかっても、一生懸命参って来りゃやっぱ必ずおかげは頂くでしょう。これは合楽だけの事じゃない。周囲の私共の知っとる限りの教会を見てもそうだ。
 それこそ飛ぶ鳥落とすような勢い盛んであった教会、それはおかげを頂くからというてどんどん参った。又おかげをどんどん頂くから信者は増えた。ところが信心を頂いとらん、心に光を頂いとらん。だからその先代が亡くなられた途端、もうがたがたに壊れてしもうた。あぁあの総代さんはどこへ行ってござるじゃろうか。も影もなかごとなってしもうた。それはやっぱりおかげばっかり頂いとるから、おかげの重荷で却って苦労しとる。心の光、心に頂くところの力。
 信心のその力光をもって、それにらいうならば、下さるおかげね、先日から頂くように、皆さんの信心はね、神様から一礼言われる程しの、神様がお礼を言いなさる程しの、いうなら神様が喜んで下さるような、信心をさせて頂かなければならん、合楽の方達はなかなか一生懸命信心も熱心、御用も一生懸命出来なさるね。だから神様が、それこそお礼を言いながら神様が、黙っておかげを下さる、と言う事は喜んで、おかげを下さっておると言う事です。
 神様がお礼を言いながら私共が頼みせんことをお礼のしるしにおかげを下さると言ったようなおかげでなからなければいけん。神様がごくろうさんと言うたり、思うたりして下さるおかげを一つ頂いとかんとね もう、これはほんなごと、私が死んだらおかげは頂かれんごとなるばいて私が、この信心を本当に継承しとかんと、お互いの信心は皆さんが熱心で信心なさる。
 けれども、いわゆる一捻りが足らんてんそん。ここが足りない、惜しいことじゃ。こくろうさんじゃ、そのこくろうさんに、点々ほんの点々を打っただけで、ごくろうさんというて頂ける。神様が喜んでおかげを下さるという事はです、私は今日の御理解でいうと心に光を頂いておかげだとこう思うんです。一生懸命参りよるけんおかげを頂く 只一生懸命参りさえすりゃ、只、一生懸命拝みさえすりゃ参りさえすりゃ、修行させすりゃおかげを頂くと信じた神様では大した事はない。
 その修行を止めたら元の木阿弥だと言う事。ほうらあっちの先生はもう、それはもう人の真似の出来んごたる修行をしなさる。それで人も助かった。所が先生がそげな修行を止めなさると、すとっとおかげが頂かれんごとなる言う様な教会であったり、信者であっては駄目だと言う事。自分の心がもう一年一年言うなら有難うなってくる。心の光が自分ながら感じて光を頂いて行きよるな。これが光だろうと思われる様な、心に光を頂く事を目指しての信心でなければ、これならばもうあなたのものである。
 神様の方が一礼申しながら下さるおかげである。いうならごくろうさんと言うて下さるおかげである。私は昨日、総代さん方に本当にそれを、あの折角御信心をなさるならね、ここに焦点をおかねばいけませんよと。一生懸命お参りをする、お取次を頂く修行をする。成程おかげを頂くんです。けれどもそういうおかげでは、ならその修行を止めた途端におかげにならんごとなる。有難うならなければ心に光を頂かなければ。
 そうすると信心は有難いもの、楽しいものになってくるから、いよいよ信心の光は言うなら大きくなる。今日私は本当に有難いことを頂いた。はぁ和賀心時代を創ると。すると今日は信心なければ世界は闇なりと言う様な、ここを頂いた。はあ合楽の私が頂いとる光は、どこの国に持って行ったっちゃ、光輝くぞと言う事です。人がその光に潤う。人がその光に光の下に集まって来る。そして光を受けたいという信心者が出来てこそはじめて、世界が明るうなっでくるのです。
 只、信心すればと此処でおっしゃっとられますけども、その信心すればというのが、只の信心じゃない。一番はじめにおっしゃるとる。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと、はっきりいわば念を押してある。ここになら、わが心が神に向かうて行くに従って光は大きくなって行くのです。心の力は大きくなって行くのです。だから言うならば周囲が明るくなる、おかげになってくる 自分の心の中に、例えば自分の心の光では言うならロ-ソクの光が、風にゆらゆらするような時があります。
 もう消うごとあるけれどもです、信心の光を頂いとりますと、成程そのことは苦しいことであるけれども、その光でその苦しいことの実体がようわかってくる。そして成程、これは改まらにゃいけんもんだ、取り除かねばいけんもんだと言う事が、はっきりわかってくる。光がゆらゆらで消えてしまうから、それがわからん、取り除かねばものもわからない。これから進めていかんならん道もはっきりしない。
 光というものはそういう働きをするもの。まあそれこそ皆さんの心の中にね、本当にこれが信心の光であろうかと、小さい信心でもよいから、家の中が明るうなる。いうならば、お店の言うならばお客さんが喜んで下さる。おばしゃんあのお神酒さんば、もういっちょ頂かしてくれんのと、中村さん方に来たお客がいうそれを飲むといや頂くと、頂くとおかげを頂く。先日なんか大変おかげ頂いた。
 だからもう一杯お神酒頂かせてくれと。さあ、頂きなさいと。そしたら帰りに千円も置いて行かっしゃった、そげなもんは要らん。こげなお神酒さんは売ることじゃないから要らん。けどもしゃっちと言うて置いて行かっしゃんたと言う様な、お話があってましたがね。お客さんがそんなに喜んでおられる、本当に私は思うのにもう自分の関係ある人、自分の身近に居る人に金光様の信心、そして有難く話さにゃおられんというのが、私はそれが光の前提だと思うですね。
 又おばしゃん、又あんた家に来たけん金光様の話聞かにゃんと言った様な、次におかげの泉のあれはいっちょ、読ませんのと言われるように段々なっ行かれる。自分の例えば家だけくらいは孝子さんにあげたのじゃないけれども、嫁御がひとり信心の光を持っときゃ家の中が明るうなると言う様な、嫁御にならにゃいかんばい 店の中の主人が一人、信心の光を頂いとりゃ、店の隅々までお客さんが、いうなら明るうなるような、おかげを頂かしてもらわにゃ。
 それには自分の心の光がいよいよ冴えてくりゃ、いよいよ信心の光が大きい光になって行かなきゃならん。それにはわが心が神に向かうて行くと言う様な、向こうて進んで行くことが信心だと。信心とはもう有難くならせて頂く稽古だと。そういう信心を頂いておかなければです、只いうなら力を持ってござる先生がござる間は、おかげを頂くけれども、その先生が亡くなられると、もう信者もおがげもがたかたに壊れて行くような、事実を私共は知っている。
 だから、せめてです、合楽でこうやって一生懸命信心をなさっておられる方達は、そういう二の舞を踏まんような、めいめいが光を頂いておいて下さいよ、力を受けといて下さいよ、と言う事。いよいよわが心が神に向かって行く信心をね、身につけさせてもらいそれが楽しうくて、朝参りも出来る。御用も出来るという信心にならなければ、いけないと言う事ですね。
   どうぞ。